フィステーラ(地の果て)岬へ

紀行文

     10月28日~11月3日

               【憧憬の日々】 

 「2016年10月からイベリア航空のマドリード直行便再就航」の知らせがあってから私はずっと「次はそれに乗るんだ!」と憧れていた。マドリード直行便というのはその時まではまだ知らなかったが以前にも就航していたことがあるらしい。私はその年の5月に一か月スペインを歩いてきたばかりだったのでその便に乗れるのは一、二年先のことになるなあとは思ったが。つまりその時からであるからこのことは私の8年越しの夢だったのである。しかし2018年にサンティアゴ巡礼の一部やり直しをやろうとした時に、行きはエールフランスでないと不都合だったので帰りだけをマドリードからの直行便に乗ろうとしたら旅行会社からそれはダメだと言われた。なぜか往復とも同じ航空会社を使わないといけないのだそうである。旅程によっては全部同じ会社を使うということが出来ない場合だってあるんじゃないかと私は納得がいかなかったのであるが、論破するほどの知識がないのでしぶしぶその時は諦めて往復ともパリ経由のエールフランス便を利用した。

 そして2020年の春に今度こそはイベリア航空のマドリード直行便に往復で乗ろうと思って前とは違うルートの巡礼旅を計画していたが、誰しもがご存じの通りコロナによってその計画は壊滅してしまった。そして2022年、コロナが終息の気配を見せまだいささか面倒な手続きが残ってはいたが何とか自由に海外渡航が出来るようになった。しかし私には家庭の事情というものがあって一週間以上の長さの旅をすることはまだできなかった。それで2022年の後半から2023年にかけては日帰り~5日間の短い旅をいくつかやった。今回のマドリード直行便の予約をしてからのことだが2024年にも6月に京都とフィンランドに行ってきた。詳しいことはこれまでのブログの記事をご覧いただきたい。

 それで「ビジネスに乗る」という望みはフィンランドに行く時に叶えてしまっていたがスペインに行くのはまた別のことであった。本当はたった一週間だとしても歩く旅がしたかった。しかしコロナで待機しているうちに私の膝が経年劣化をしてしまいそれが無理になった。だからせめて2016年にサンティアゴ・デ・コンポステーラまでたどり着いた後の締めくくりに行くことができなかったその先の「フィステーラ」まで飛行機とバスを使って行ってこようと考えたのだった。でもそれだけでも一週間かかってしまうのだった。そしてその一週間が今の我が家の家庭の事情に照らし合わせるとギリギリいっぱいの長さだった。家で私の帰りを待つ夫や娘が衣食住のことを自分たちで行うのは問題ないのだが、精神的に持たないのだそうである。反対に私は精神的にはいつだって一人でいるのが一番楽なのだが彼らはそうではないので仕方がない。それでも一週間程度なら家族を残して旅に出てもいいと言ってもらったので私はこれを自分の生涯で最後の海外旅行と考えて計画した。

 「これが最後」というのは別に家族に忖度しているわけではなく自分でももう体力に限界を感じているからだ。まず旅にでたら美味しいものを食べるのがその楽しみの一つというものだが、私はもうどんな美食を目の前にしても通常の一人前の半分またはそれ以下しか食べられなくなってしまっているのだ。それから物が持てない。私は過去に重すぎた荷物のせいでひどい目に遭って以来ひたすらミニマリズムと荷物の軽量化を心掛けているが、それでも一泊以上で海外に行くとなればどんなに少なくしても荷物は3㎏以上にはなる。3㎏なんて重いとは言えないだろうと思うだろうが、それで数時間歩くのはきついのだ。そういう体力の衰えを日々実感しているところなのである。それに海外に行くとなると交通費もかかる。そもそも私にとって海外旅行は海外だから行きたいのではなくて、どうしても行きたいところがたまたま海外だったから頑張って行っていただけなのだ。だからブータンやスペインのカミーノ(巡礼旅)を諦めてしまったらもう旅行の目的は「一人になること」と「乗り物でのゆったりした移動」以外にはなく、極端に言えば近場の街でのホテルステイや安い電車に乗ってぐるぐる巡り歩く、というのだけでもかまわないのだ。わざわざ大金を使いいろいろな手間をかけて海外にまで出る必要はない。そういうわけで私は今回の旅をもって海外旅行は「卒業」することに決めた。もう気が済んだ、そんな感じだ。海外一人旅というのは子育てにも似ている。楽しいことも大変なこともあり、大変だったことも過ぎてしまえばいい思い出になることが多い。しかし年を取って体力気力がなくなってまでやりたいことではない。引退する時が必要だ。

                 【とうとう実現の運びに】

 いつ回復するのかわからなかったマドリード直行便再就航の発表があったのは2023年の暮れだった。予定日は2024年10月27日(日)だという。(後にそれは10月28日(月)に変更された。)それで私は年明けすぐに予約を入れた。どんなにこの日を待ち望んでいたことだろう!しかし予約が成立しても実際に旅立てるのはまだ10か月も先のこと、その間にまた何かあって予定が潰れてしまうのではないかという恐怖は常にあった。コロナのようなパンデミックばかりではない。日本にはつきものの天災の数々、交通機関に何らかの障害を来す事件、事故。あるいは家のだれかが風邪をひいて37度越えの熱を出したとかぎっくり腰を起こした程度のことでもそれを放置して出かけるのはいかがなものかということになるだろう。自分自身が体調不良を起こすこともあり、それは自己責任なので仕方がないがともかくそれらの何物にも見舞われないように私は毎日祈り続けた。悪い運気を呼び寄せるような行動をしないように気を付け続けた。そしてようやく出立の日を迎え、本当にこの日が来たんだと信じられないような気持ちさえした。しかし夫も娘も「大丈夫だ」と言ってくれている。だからこれは夢ではない、大丈夫だ。

 10月28日

                  【出発】

 2024年10月28日(月)の朝6:30、私は満を持して家を出た。向かうのは成田。東京駅から成田エクスプレスを使うことにしていた。

 成田空港に行くのは11年ぶりであった。以前には私は海外には成田からでないと行けないのかと思っていて2012年と2013年にブータンに行った時には成田から出発したのだが、その後羽田からも行けることを知り2014年にヨーロッパ数か国を旅した時からずっと羽田を利用していた。しかし今回の便は成田からしか出ないという。4年前に乗る予定だった便は確か羽田発だった気がするし羽田発の方が近いし交通費が安くすむんだけどなあ、と思うが仕方がない。しかも以前成田に行くときによく利用していた大宮ー成田間の高速バスも現在は運行していないようだ。それで最も早くわかりやすく行けると思って成田エクスプレスを使うことにしたのだ。

          朝食を列車内でというのが無上の楽しみ 

  成田第二ターミナルには9:30ごろに着いた。成田は11年ぶりということもあってか何だかちょっと羽田とは勝手が違う気がした。いろんな場所がちょっとわかりにくい。日本語空間ではあるのだが何だかちょっと外国の空港に来たような気がした。しかしチェックインや両替などの手続きは滞りなく済み、10:30ごろにはこちらにもあった「さくらラウンジ」でゆっくりすることができた。両替についてだが、6月にフィンランドに行った時にはユーロのキャッシュを全く持たずに行ってOKだったが今度はそれでは少々不安である。もしかしたら多すぎるかもしれないが念のため二万円分をユーロにして持って行くことにした。

    さくらラウンジで、なぜかいつもコーラ

 そして待ちに待ったイベリア航空ビジネスクラスへの搭乗である!だが搭乗口に行ってみて大変驚いたことがある。搭乗を待つ乗客の90%ほどが(多分)スペイン人だったことである。あとの10%は多分日本人であろう。いやはや!つまりこの便の再就航(それも記念すべきファーストフライトで搭乗前に役員のような方々が挨拶をして下さった。)を待ち焦がれていたのは日本人よりもスペイン人だったということか。日本に来るときはどこかを経由して来たのであろうが帰りは直行便を使えるんだぞ、わーい!ということだ。

    あ、あれがイベリア航空機♡

 機内ではフィンエアーの時と同じような丁寧なおもてなしを受けたが座席のデザインは少し違っていた。会社が違うんだから当たり前だが。でもリクライニングなどの操作方法は同じなのでわからないことはなかった。ウェルカムドリンクのサービス、さらにもう一度スナックとドリンクのサービスが離陸前にあった。それでなぜか出発が一時間程度遅れたがあまり気にならなかった。

   ウェルカムドリンク。スペインといえばオレンジジュース。

     豪華おつまみ。オリーブとチーズとクラッカー。

 同じ長時間のフライトでも午前中もしくは昼前後の出発か夕方以降の出発かで雰囲気が違う。時差があるのは同じだが昼間の時間が長いので「寝なければ」という気持ちがあまり起こらなかった。それでいつもはフライト案内の画面ばかり飽きずに見ていて映画とかはあまり見ないのだが今回は「すずめの戸締り」などの映画を4本ほど観た。そしてその合間合間に眠った。熟睡した感じでもないがそれなりに眠れたようだった。一回目の食事は離陸してから間もなく出たが二度目の食事は着陸の一時間くらい前だったのでかなり間が空いていた。それでちょっとおなかがすきすぎて気持ちが悪くなってきたくらいだった。どうしてそんなにギリギリまで引っ張らなくちゃならないのかわからなかった。もうちょっと早めに出してくれた方が準備や片づけも楽じゃないか?と考えた。待ちに待った食事だったがお腹が空きすぎていてむしろあまり食べられなかった。

    ローストビーフ、美味しいけど堅かった(´・ω・`)

     メインはラザニア

      デザートのアイスクリーム。豪華☆

            ミルクティー

          ディズニーの何か

      二度目の機内食。早い夕食となった。キッシュです。

 成田からマドリードまでは16時間かかるのかと思っていたが15時間かからないくらいで着いた。出発が遅れたのは前の飛行機の到着が遅れたからとかアナウンスがあったが、それなのにマドリードに到着したのは予定時刻よりも30分早いくらいだった。飛行機も時間調整のために自在に飛ばすことができるのだろうか。

                【マドリード到着】

 マドリードのバラハス空港に到着の予定はは現地時間では同じ28日の20:20であったが実際には19:40ごろに到着した。しかしそのあとが長かった。空港を出るまでになんだかとても手間取った。混雑していたし、手続きのためにいろいろな部分を通過する道筋が複雑だったし、建物内が何だかとても暗い(照明がではなくて壁や床の色や雰囲気が)感じがしたしで「バラハス空港ってこんな感じだったっけか?」といぶかりながら21:00過ぎにやっとタクシー乗り場に出た。予約してあるホテルまでは遠くなく、道さえわかれば歩いてでも行けそうな距離だが道は勿論知らないし、パソコンで出した地図をJTBからもらってあるがどうもよくわからない。そして夜だし今回はタクシー一択である。

 ホテル「コンポステーラ・スイーツ・アパートメント」に着いたのは21:30ごろだった。タクシーだけど随分長く走った気がした。しかし回り道をされたわけではなく自動車道がそうなっているから長いのだろうということはわかったがメーターの数字は32€と見た。デビットカードで支払ってあとで確認したら5600円ということだったので「たっかいなー!」と思った。明日は何とか違う方法で空港に戻ろう。

 もう疲れたので出来るだけ早く寝たいものだが食事は着陸の一時間前に済んでいるのでとりあえずいらない。電気湯沸かしケトルなどの設備があったのでそれを利用して粉末ミルクティーを飲んだりする。翌朝の朝食は機内食から持ち出したパンやチーズとやはり粉末のカフェオレである。しかしパンは固くなっていて私には食べるのがなかなか困難であった。

 ところで後になってみれば信じられないほどの馬鹿馬鹿しい勘違いなのだが私は部屋のベッドを見て「掛け布団がないじゃん」と思った。「部屋は立派なのにそういうこともあるんだな」と思って仕方なく備え付けの大きいバスタオルを掛けて寝た。やや寒かった。次に日に次の宿に入ってからようやく気が付いたがどちらのホテルのベッドメイキングも至極まともだったのである。すなわち掛け布団はベッドの両側にきちんと入れ込まれてその上から枕が載せてある全く普通のしつらえになっていたのである。それなのに私はこういうベッドをもう何十回も見て使ったことがあるにも関わらず「掛け布団がない」ように見えてしまった、というのは何なんだろう?ボケた?強いて言えばこちらの巡礼路のアルベルゲと呼ばれる安宿ではベッドの上にマットレスがあるだけでシーツも毛布もないところが多いがその記憶に引っ張られたか?私のその時の脳内の状態を納得のいくように説明することはできないのだがともかく二晩目には勘違いに気が付いてちゃんと巻き込まれた掛け布団を引っ張り出して使用することができた。

    ホテルの部屋のリビング。寝室は別に。

 もう一つこの晩の出来事。このホテルはいくつかの棟に分かれていてそれぞれの棟が6階建てとか7階建てとかなのだが棟と棟の間にある中庭で数人の小学生くらいの子供たちがかなり遅くまで遊んでいてうるさくて困った。多分宿泊客の子供さんたちで親御さんの目があるから大丈夫ということなのだろうが夏の遅くまで明るいという時期でもなし、11:00過ぎまで騒いでいて大人が何も注意しないというのはいかがなものか?と思った。でも流石に出向いて注意しようというほどの気は起らず我慢して寝ることとなった。

 10月29日(火)

                 【みっともない事件】

 その日サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう飛行機の便は13:20なので歩いて行くとしてもこのくらいに出れば大丈夫かなと思い8:50に部屋を出てチェックアウトをする。バラハス空港への方角はわかるのでJTBで出してくれた地図やスマホのナビを見ながら進む。空港手前にメトロの駅があるようだからそれを見つけたら利用してもよい。そう思いながら歩いて行くと15分ほどで空港に向かうらしい自動車道のガード下に出た。それまでにメトロの駅とかは見つからなかった。そして頭上を走る自動車道にそのうち合流するのだろうという角度で右に向かう分かれ道があった。高速道路ではないし歩行者進入禁止とかの標識もない。「→空港」とだけ書いてある。そのそばに何か文章の書かれている細長いボードがあったが読めないし(そもそも読もうと考えなかった。そこは反省すべき点だろう)何となく無視してしまった。そしてそのまま車道の左側を歩いて行った。歩道はついていないが路肩には人が一人通っても問題ないくらいの幅があった。でも歩きながら「ちょっと目立つな。みっともないな。」とは思った。歩行者を想定していない道であることはわかった。だからもしそのうち歩行者用の通路でも見つかればそっちに入るしもう戻りにくいし・・・。

 そうしていると10分くらい歩いたころ私の横を通った一台の車の中から男性が顔を出し、私に向かって何か叫んだ。早口なので言葉の一つ一つはわからなかったが「何をしているんだ?!危ないじゃないか!」と言っているのはわかった。まあ、それ以外は考えられない。が、私はどうすることもできず「アイムソリー」とつぶやくしかなかった。

 そしてまた5分くらい(もっと短かったかもしれない)進むと私が歩いていた左側とは反対側の車道の右側の路肩沿いにちょっとした広い地面の部分があって、さっきの男性がそこに車を止めていて私に向かって「こっちに来るように」と指示をした。そして走っている車たちに停まってもらって私を渡らせてくれた。

 そしてその場所で私は(多分)お説教と尋問をされた。が、相手がどういう言葉を喋っているのかは全くわからなかった。私のスペイン語は多分4,5歳児レベルである。相手の言葉の一つ一つがわからないので私は「マズかった」と反省はしていたが言われたことが心に響いてはいなかった。もしもこれが日本語で言われたのなら心に響いて涙腺にも影響をおよぼしていたかもしれないが、また反省の言葉を尽くして伝えることもできたであろうが今私の思い出せる言葉は「アイムソリー」かスペイン語の「ロ・シエント 」しかない。「ごめんなさい」という意味だがなんだか軽すぎるような気がしたので言わなかった。

  先ほどの男性が通報したらしく別の男性も車で来ていた。警察かな?と思ったがそういう服装ではなかったので別の機関の方だろう。どちらとも全く会話は成立しなかったが私が抵抗や反抗をするそぶりを全く見せないので危険な人物ではないと判断してくれたのかもしれない。でもどういうことになるかなかなかわからなくて「警察に連れて行かれるかな?勾留まではされないと思うけど予定の便に乗れないのは困るな」と思い、「空港に行きたい」ということを二回ほど発言してみた。が、どうなるのかわからなかった。でもパスポートを見せろとは言われなかった。

 そのうち婦警さんが二名、呼ばれてやってきてまた私にいろいろなことを聞いたが私はほとんど答えられなかった。ただ「お金は持っているのか?」と聞かれたことがやっとわかって「ウン、ウン、持ってます!」とうなずいた。「お金」という単語は見たことがあったのだが通常使わない単語なので忘れていた。だって旅行中に「私はお金を持っています。」とか「お金がありません」とか普通言わないじゃないか!お金をなくすなどということがないように十分気を付けているものだから。最後には婦警さんがスマホの翻訳機能を使って「これからあなたをタクシーで空港に送ってあげようと思うがそれでいいか?お金は払えるか?」と尋ねてきて私は二つ返事でOKをした。タクシーはもうすでに呼ばれていた。(仕事が早い!)

 そして私はそのタクシーに乗せてもらって空港に向かうことができた。この事件はけっこう長い時間がかかったように感じられたが私が男性に呼び止められたのが9:20ごろ、タクシーで空港に着いたのが9:45ごろであった。タクシー代は2410円であった。全行程を乗るより60%くらい節約できたわけだが勿論もうこんなことはやりたくない。

 私がスペインで自動車専用道脇を歩いてしまったことが法律的にどの程度の違反行為だったのかはわからないが、どうやら私の立場は「取り締まるべき犯罪者」ではなくて「危ないことをやっている物を知らない保護するべき外国人の婆さん」ということだったのだろう。ヨーロッパの都会では子供は普通外を一人歩きしないそうなので子供が自動車道に入り込むことは考えにくいだろうが、巡礼路が近い土地柄で中には地続きである故に北方の国から何千キロも歩いてくる人もいるというくらいだから、空港までの5キロくらい歩けるじゃんと考える人が他にもいるかもしれないじゃないか、と後から私は考えた。だから歩行者進入禁止ならばそのような標識をちゃんとつけておいてくれないかなあ・・と思った次第である。

            【サンティアゴ・デ・コンポステーラへ】

 バラハス空港のターミナル4には10:00前に着いた。空港で何か昼食になるようなものを食べたいなと思っていたのだが、空港の出発ロビーのあまりの混雑ぶりに驚き飲食店を探そうなどという気が失せてしまい、それであと一時間ぐらいの余分な時間を潰すために空いている場所に座って持参のクラッカーなどを食べ水を飲んでいた。その水は荷物検査の前に処分しておかなくてはならなかったのだが、乗るのが国内線だということでちょっと気が抜けていてそのことを忘れていた。検査台の前まで行って気づき、あわてて近くにいた係官の方にお願いしてそこらへん(ゴミ箱?)に捨てさせてもらうこととなった。ボトルまで捨てたくはなかったのである。

 11:00くらいになってチェックインの列に並んだ。ここは国内線のはずだがイベリア航空以外にいくつも違う航空会社のカウンターがあった。しかし行きかう乗客たちの群れから聞こえてくるのは殆どスペイン語で英語はほんのたまに混じる程度であった。スペイン国内ではスペイン語を話すのが当たり前(外国人でも)と思われているようで、英語は話が通じなくて相当困ってからようやく少しひねり出してもらえるくらいである。ホテルのフロントや空港のカウンター以外で英語で話せるのは十人に一人くらいだという印象である。

  空港に来ているのが皆スペイン人とは限らないが、そうじゃないとしても南米とか、スペイン語圏の国から来ている人が多いということだろう。それにしてもなぜこんなに混雑しているのかわからない。私は以前に二度このバラハス空港を利用したことがある。両方とも日本に帰国する際であり、パリ行きのエールフランス機に乗った。そのどちらの時もバラハス空港はこんなに混雑していなくてもっと落ち着いた感じだったという記憶がある。一体どうしちゃったんだろう?その上チェックインの後も荷物検査の後も何かとわかりにくくてごたごたしてやっと搭乗ゲートらしいところに着いてもうここでいいんだと思って安心していたらまだ先があって、間に合うのか?とまたうろうろゲートを探し回りやっと間違いないであろう場所にたどりついた。喉が渇いたが水は処分してしまっていたので、やむを得ず高いだろうなと思いながら近くのスタンドでコーラを買った。500ml入りで624円だった。それを持ってサンティアゴ・デ・コンポステーラ行きに乗った。

 飛行機は小さいのかと思ったがそれほどでもなかった。ブータン航空の飛行機より一回り大きいかな?という印象。乗客数もかなり多く感じた。でも機内に入ってから感じたのは壁が薄いような・・?何だかバスに乗っているような感じがした。スペインは国土が日本より少し広いからというせいもあってか国内でも長距離の移動は列車よりも飛行機を使うことの方が多いようだ。だからあんなに空港が混んでいてカウンターの数も多いんだろうなと考えた。

 飛行時間は一時間二十分の予定だったがもう少し早く着いた。行ったことがあるわけではないのだが位置的に日本に例えると五島列島の空港ぐらいの感じか?と思っていたのだがわりと大きくて、これまた行ったことはないのだが長崎空港ぐらいの感じかな?と思った。(でも全て想像で言っております。すみません。)それでもわりと手間取らずに外に出られた。

 トイレに寄ってから出口に向かうと市内に向かうバスが発車寸前だった。30分ほどの乗車で1・5€だった。これ八年前と同じ、スペインの市内バスの一律料金だ。席が一つ空いていたので座ったが、荷物のせいで変な姿勢で座ることになって疲れた。

 やっとサンティアゴ・デ・コンポステーラの鉄道駅の前に着いたがそこでまたびっくりした。例えてみると旧原宿駅のような可愛らしい駅舎の上に覆いかぶさるように高輪ゲートウェイ駅のような近未来的な建物が建設中で、旧駅舎は稼働中、新駅舎の施設も一部稼働中なのだが多くの部分がまだ絶賛工事中という感じだった。それを見て私はどっと疲れた。ここから予約してある二泊目のホテルまではそう遠くないはずだが自力で道を探す自信がなくなった。またホテルのことばかりではなくもう一つやらなければならないことがあった。それは翌日の朝この付近から出るフィステーラ行きのバスの乗り場と発車時刻を確認し、チケットを先に買うことが必要ならば買っておくということである。

    サンティアゴ・デ・コンポステーラ駅。旧駅舎の方。

           新駅舎を建設中

         サラミを挟んだパン、2€

 落ち着くために私は新駅の建物の中にあるカフェに入った。広さはあって、席を確保するのは楽だったが私の食べやすいものが見つからなかった。堅いか甘すぎるか大きすぎるものしかない。仕方なく一番安そうなサラミサンドを買った。フランスパンにただサラミを挟んだだけ。2€だった。コーラと一緒に少し頑張って食べようと思ったが、やはり殆ど食べられなかった。でも休んだせいで少し落ち着いたのでそこら辺を歩き回ってやっとバスのチケット売り場を見つけた。バスは一番早いのが9:00発で、運賃は7.2€だった。私はこれまでずっとデビットカードで支払ってきたがさっきの市内バスに乗る時からキャッシュを使い始めた。あまり使い残しても困ると思ったのだ。バスの乗り場は2番だと言われたが、そのホームへの行き方がよくわからなかった。でも「まあいいや、後でまた確認しよう」と思い、私はとりあえずホテルに向かうことにした。タクシーの乗り場もこれまたはっきりしなくて人に聞いて「あっちだ」「あっちだ」と言われながらウロウロ・・。やっと乗り込むことが出来た。

 ホテルに着いて荷物を置いて少し休んだらまた確認しに来よう、もうタクシーに乗らなくていいようにちゃんと道を覚えるのだ!と思って私は目を凝らしながら外の景色とタクシーの走り方を記憶した。やがてタクシーはホテルに着いたがそこに入る時、私は今まであたふたしたせいで貴重品(パスポート、チケット、お金など)がバッグの中でごちゃごちゃになっているのに気が付いた。ドアの前でホテルのバウチャー(予約確認書)とパスポートを探すが見つからず、やむなくドアの中に入ってからエントランスの隅にあった椅子の上で荷物をひっくり返してようやくバウチャーとパスポートを探し出し、フロントに提出した。

 部屋で少し休んだ後、私は再びさっきの駅に歩いて向かった。特に迷わずにたどり着くことが出来、20分もあれば行けることがわかった。タクシーが発車地点の関係で遠回りをしていたこともわかった。そして体が休まって荷物もなくなって楽になったせいかさっきわからなかったバスの乗り場の2番ホームも確認できた。それでまたホテルに戻ろうとしたのだが、今度は予想外にも道迷いをしてしまった。ホテルのごく近い地点の曲がり角の近くに公園があるのだが近い距離に大きいのと小さいのと二つの公園があって見る角度によって(私にとっては)見間違えるような紛らわしさだったのだ。そのせいで曲がるところを間違えてしまった。スマホのナビに助けられて漸く戻ることができた。

さて食事だ。私は昨日の夜バラハス空港で飛行機を降りて以来まともな食事をしていなかった。私は何かを探すのに手間取ると気持ちが落ち着かないので食事は後回しになってしまいがちだし、物理的にもどこに行けばまともな食事にありつけるのかわからなくなってしまうのだ。それに荷物の中に堅いパンであれ残っているとそれを消費してからでないとレストランなどに行っている場合ではない(荷物を減らさねば)と考えるのだ。私は先ほど買った堅いサラミサンドやまだ残っていた機内食からの堅いパンをインスタントのミルクティに浸けて柔らかくして食べることを思いついた。それでこの晩と翌朝の食事は「パン茶漬け」ということになった。そしてこの晩も外が煩かった。車道に面したホテルだが、酔っ払いでもうろついているのだろうか?

 10月30日(水)

                【フィステーラへ】

 朝8:00ごろ私はホテルをチェックアウトしてサンティアゴ・デ・コンポステーラ駅に向かった。チェックアウトの時、実は懸案であった「スタンプ」をクレデンシャルという巡礼用のスタンプ帳に押してもらった。過去のクレデンシャルだが私は三冊持っている。一冊目は2016年に一か月スペインに来る前にわざわざお金と手間をかけて「東京カテドラル」という教会から取り寄せたものだがちょっとハプニングがあって一度「紛失」してまた戻ってきたものである。だからこれには歩き始めの4日分くらいしかスタンプが押されていなかった。二冊目は一冊目を紛失した後に途中の街で発行してもらったもの。これには巡礼5日目から30日目までのスタンプが押してある。三冊目は2018年に最初の100㎞余りだけ歩き直しをしたときに用いたもので、わざわざ金と手間のかかる日本発行のものではなくてフランスからスペインに入る手前のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーで発行してもらったものである。今回私はちゃんとした巡礼をするわけではないのでちょっと恥ずかしいのだがスタンプを貰うくらい構わないだろうと思い一番初めの日本発行の美しいクレデンシャルのわずかなスタンプの続きに押してもらった。勿論何も言われなかった。

 駅について待合室でちょっと過ごした後にバスのホームに降りて2番線に並んだ。私の前に先に並んでいた二人は中年のご夫婦でロシア語を話していた。(内容まではわからない。)私の後からも何人か来たがそのうちのやはり中年の男性とちょっと話をした。アメリカからの方で、同行の奥様はタイ人の方だそうだった。レオンからサンティアゴまで歩いてきたそうである。レオンは「フランス人の道」の真ん中くらいでだいたいここから400㎞くらいの地点である。

 やがてバスが入線してきて乗車する段になった時に私の前にいたロシア人夫婦とバスの運転手さんがモメ出した。そのご夫婦はまだチケットを買っていなかったらしくて、乗る時にお金を払えばいいと思っているようだった。しかし運転手さんは売り場でチケットを買ってこなくては駄目だと言った。そういう決まりなのだから当たり前なのにロシア人カップルは抵抗した。運転手さんはスペイン語、彼らはロシア語でかなり長い間舌戦を続けていた。いやあ、強気だなあ、一体どうするんだい、と呆れて眺めていたが、流石に5分くらいするとご夫婦は諦めて、しかし荷物はバスの中に置いてチケット売り場に向かった。そしてそのあと私や後続の人々はバスに乗り込んだ。そして発車時刻間際にロシア人たちは戻ってきて「このバスには乗れないと言われた」と言って荷物を持って去っていった。(言葉がわからなくても言っていることって結構通じるものなんだ!)

 バスが出発して間もなく窓の外を眺めていた私はある物に気が付いた。ある建物の屋根の上に小さい煙突がキノコが生えているように沢山並んでいたのである。西洋の屋根の煙突といえばサンタクロースが出入りできるような形の物しか見たことがなかったので私は驚いた。この地方独特の物なのかと思った。それでネットで「ガリシア地方の煙突」で調べたら全くヒットしなくて、しかし「小さい煙突たくさん」で調べたらヒットした。これは別にこの地方にだけあるものなのではなくて、ヨーロッパ中の街の古い集合住宅の屋根にはよくあるものなのだそうだ。私は今までヨーロッパでも田舎の道を歩くことが多かったし街中を歩いていたとしても5階10階ある建物の屋根の上までは目に入らなかったからわからなかったのだ。そのことを知ると、以来フィステーラの街でもマドリードの街でも少し大きい建物の上にはたいがい小煙突がキノコのように生えているのを見るようになった。各部屋に暖炉を設置するとこうなるのだった。よく見ると古い集合住宅のようなレンガ造りでなくコンクリートで作ったような近代的なビルの上にもコンクリート製の小煙突が同じように生え並んでいるのだった。

    サンティアゴ・デ・コンポステーラの駅前。これは夕方

    朝バスが走り出して間もなく屋根の小煙突群に気が付いた。

       バスの車窓から。海沿いの景色。

          同じく車窓から。以下二枚も。

 12:00ごろバスはフィステーラの街に着いた。中世以前のヨーロッパにおいては「ここが地の果て」と信じられていたという岬のある街だが意外と建物が密集していた。都会と同じような商店や飲食店や当然ホテルもいろいろ立ち並んでいるが、流石に岬の街なので坂道が多く私は商店街巡りをするのは諦めた。フィステーラのバス停は小さなもので、そばにチケット売り場とトイレがあった。(それだけで有難かった。)私はバスから降りた人々の中に日本人の女性が二人いるのを見つけて少し話をしたが、彼女らは多分私より20歳くらいは若そうで行動予定も違っていたのですぐに解散した。私はとにかく明日のバスのチケットを買い、トイレに行き、それから宿をゲットしたかった。そしてチケットとトイレは無事に済み、私はできるだけ近くでホテルを探した。ホテルの看板は目につく範囲に沢山あるが「今日は閉まっている」というところもあり、一つづつ当たってヒットしたのは三件目であった。

                 【岬を踏破】

 そこはバル(バー兼カフェ兼軽食店)と一緒になっているホテルだった。食事もしたいし宿も必要、しかしあまり動き回りたくない私にとっては好都合だった。私はバルの中に入っていきホテルのチェックインをした。店は二人の女性が切り盛りをしていた。そのうちの一人は手の動きがちょっと不自由なようだったが頑張って仕事をしていたので応援したい気持ちになった。(勿論そうでなくてもそこで泊まり、そこで食べるつもりだった。)

 部屋に荷物を置いた後、私はバルで何か食べようと思った。なにしろ一昨日バラハス空港に着いて以来クラッカーやパン茶漬けという悲しい食事しかしていない。それでそろそろまともな食事がしたかった。ピザとかパスタとかが食べたかった。(それがまともか?と言われるかもしれないが、それ以上手のかかったものになると「前菜、メイン、パン、デザート、ワイン(水でもいいが)コーヒー」の定食になってしまい、私の胃には収まり切れないのだ。)しかしそのバルではパン、パイなどの焼き物とパンにハムかチーズ(限定)を挟んだものしかないようだった。

   カフェ・コン・レチェとオレンジジュース。この組み合わせはなかなか良い。

          こういうお店でした。

    スペインではよく見るフォークをぶっ刺す方式。

  

 バルによって用意できるものは違い、中にはピザやパスタやスープやサラダや定食が食べられる処もあるがここは「アルコールも出すカフェ」に過ぎず、レンジでチンで済む以上の食べ物は用意できないらしかった。日本のカフェでは当たり前のように出てくる野菜サラダやスープや「ランチ」のようなものは対象外のようであった。欧米では朝食や軽食では火を使わずに済ますことも多いのだ。それで私は昼食にはハムとチーズを挟んだホットサンドとカフェ・コン・レチェ(カフェオレ)とオレンジジュースをいただいた。美味しかったがホットサンドは私の歯にとってはいささか手ごわい対戦相手だった。

 そのあと私は散歩に出た。すると海辺に立ち並ぶ飲食店の一つの店の前あたりから一人の女性が私を呼んだ。さっきバス停で話をした女性の一人だった。「今ここでメニュー(定食)を食べているのだが一緒にどうか?」と誘われた。しかし私は生憎もう食事は済んでしまっていたのでお断りせざるを得なかったが、チラッと見て内心「私には食べきれないな」と思った。そしてそこから3㎞先の岬の突端まで行ってくるのか?という話になって、私は行きたいが歩けるかな?という不安もありあいまいな返事をして別れた。

 が、実際行くのか行かないのか決めなくてはならなかった。片道3㎞というと往復6㎞である。二年半前までは朝の散歩で6㎞を一時間半で歩いていたが最近はそんなに歩くことはめったにない。無理をして全く歩けなくなる日が早くやってきては困るのである。しかし時間はありすぎるほどある。まだ午後1:00過ぎなのだ。ホテルには夕方以降に戻れば大丈夫なのにそれまでの数時間を何もせずに過ごすというのか・・・。

 それは出来ない!と思い私は歩き出してみることにした。生憎水を持ってきていなかったのでスーパーを見つけて一本買った。歩き始めの道がよくわからなくて行ったり来たりしたが、そのうち「こっちだよ」と教えてくれる地元の人がいたりして私は正しい道を進み始めた。人の半分のスピードでゆっくりと。それでもそれまで涼しかったのにだんだん暑くなってきたのは辛かった。

        岬へ足を向け始めたあたり。

  登っていく途中。影絵のような木立。猫を捕まえる豚の後ろから狼が・・

       道の途中にあった案内図

     もう岬の突端のあたり

     正面の建物、何だか有名なホテルらしい。

      引き返します。

       昔の巡礼者の像

    何か作っている。思いっきりアートだ。トイレかな?

 紫色の花と赤い花が混じって咲いているのが何だか不思議で・・

      趣のある古そうな教会

 それでもゆっくりだが歩いているとフィステーラの岬に着いた。初め迷ってウロウロしたのも含めて13:30から15:00,一時間半かかった。頂上(ずっと上り坂だったから)に15分くらいいて、下って元の場所に帰ってきたのが16:20だった。「頂上」には有名なホテルだという建物があるがそこまでは行かなかった。写真を撮っただけでいいやと思った。それと実は余談だがこのフィステーラのほかにもう一つムシアという有名な岬がある。サンティアゴ・デ・コンポステーラからどちらも 約100㎞でフィステーラとムシアの間は100㎞よりもう少し近いがこの三地点は三角形を成している。私は本当はムシアにも行きたかったがそれをするにはあと一日余分にないといけない。「ムシアのほうが綺麗だ」という人もいたが私はどちらに行こうか迷ったが有名なフィステーラの方にしておこうと思ったのだ。

 ホテルに戻り、シャワーを浴びたりして疲れた体を休めた。そして午後7:00過ぎになってまた隣のバルに食事に出かけた。その時スープはないか?と聞いてみたがやっぱりなかった。それでミートパイのようなものと、大きなクロワッサンにハムとチーズを挟んだものと、あと夜にコーヒーはまずいのでミルクティーを頼んだ。ミートパイの方はナイフとフォークで食べ終えたがクロワッサンサンドの方は固くて難しかったので「食べきれなかった」と言ってテイクアウトにしてもらった。紙の袋に入れてくれた。

 同じ店で夕食。奥がミートパイ。左手前が結構大きいクロワッサンサンド。

   ホテルの部屋の中。湯沸かし用品はなかった。

 ちなみに私がよくパンが固い固いというのはパンが古いせいではない。いわば固焼きせんべいのようなものでこちらの方々はみな歯ごたえのあるパンが好きなのである。食パンや菓子パンのようなものもないことはないが概ね日本のものよりは固めにできている。

                 【バレンシアの水害】

 前日あたりからテレビのニュースでバレンシアの水害のことをしきりに流している。フィステーラとバレンシアの間は直線距離で800㎞も離れている。マドリードからでも350㎞離れている。それで私の行動した場所には全く影響はなかったのだがだから関係ないやと思ったわけではない。まるで津波、東日本大震災の時の津波のような映像に心が痛んだ。津波ほどの速さで水が来たわけではないだろうが・・・と考えていたが後から聞いたところによると津波のような速さで水が来たのだそうだ。ただの雨なのに!日本の津波と違うのは建物は流れていなかったこと。石造りだから流れなかったのだ。でも建物以外の建造物や車は皆流されていた。そして流れているのは一様に黄土色をした泥水なのだった。

 イタリアからもボランティアが終結している、と報じられ、まるで日本の災害時の「帰宅難民」のような列をなしてデッキブラシやバケツなどを携えた人々が行進している映像も出た。「そうか、車が使えなくなったから歩いてきているのか」と思ったが、後から考えてみるとイタリアとスペインのバレンシアは2日や3日で歩いて来れるほど近くはない。そうするとやっぱり飛行機などで来ているのだろうなと思った。

 10月31日(木)

                 【海辺で暇を持て余す】

 前日にフィステーラ岬を踏破してしまったのでこの日は予約したバスの出る15:00まですることがない。バスの予約を15:00にしてしまったことがマズかったかなあ、その前の11:00のにしていけばよかったかなあ・・・と考えるがどちらが良かったとも言えない。サンティアゴ・デ・コンポステーラに早く戻ってもそこで時間を持て余したかもしれないのだ。それでその朝はホテルで10:00までゆっくりと過ごし、チェックアウトした後隣のバルで三度目の食事をして外に出た。食事はアップルパイとカフェ・コン・レチェとオレンジジュースを頼んだ。そして10:30ごろそのホテルと別れ外に出た。ホテルのスタンプも忘れずに押してもらった。ここまでで目的達成である。部分的にしか歩けなかったが一応サン・ジャン・ピエ・ド・ポーからサンティアゴまでの「フランス人の道」とその後のフィステーラの道を踏破したのだから。

  最後まで同じ店で。アップルパイとドリンク。朝兼昼食。

その日ののサンティアゴの街に戻るまでのミッションはスーパーで買い物をすることである。お土産用のチョコレート3枚くらい(それ以上持つと辛くなる)と私の大好きなパスタ「フィデウオ」を手にいれなくてはならない。しかしそれ以外にはSight seeingすなわち景色を眺めることだけである。これをすること自体は全く嫌だということはないのだが、人目のあるところで何時間も景色をウォッチングしていると「変な人」に見られるのではないだろうか?かといって何時間も歩き続けるのは体力的にきつい。もう一度フィステーラの岬まで往復してくる時間があるくらいだが午後にはまた暑くなりそうだしやる気にはならない。それでも帰りのバスは15:00に決まっているし私はどうにかして時間を潰さなくてはならない。それで結局景色を鑑賞するほかはなく、もともとそれが目的で来たわけだから私はゆっくりゆっくり周囲のきつい坂ではない部分だけを歩き回ってまず前半の二時間くらいを過ごした。そしてそのあとはバス停からほど近い位置にあるベンチのような石に腰かけて海を眺めているような姿勢でスマホでUチューブを見ていた。それならば長時間座っていてもさほど変に思われることはないだろう。そして14:00を過ぎてから歩いて10分ほどのところにあるスーパーまでゆっくり往復してきた。荷物を増やすのは出来るだけあとのことにしたかったからである。

   茂みの中に白猫。じっとしていて動かなかった。

      昨日もちょっとこの辺に来て歩いた。

               【ホテルの部屋のランクダウン】 

 そしてバスが再びのサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いたのは17:00ごろだった。もう暗くなっていた。私は翌朝乗ることになっている空港行きのバス停(それはフィステーラのような遠方に行くバスとは違って駅前の通りから出る)を確認してから今度は迷わずに前々夜に泊まったホテルに戻った。その晩の食事は前夜の残りのクロワッサンサンドをスーパーで買った粉末スープと共に食べる計画だった。ところが予定外の状況になった。

 その晩にあてがわれた部屋は前々日の時の半分くらいのサイズだった。前の部屋にはベッドが二つあったのでシングルの部屋は小さく見えてしまった。別にベッドが二つある必要はないが(あればあったでものの置き場が増えて便利だが)困ったのは当然前泊の時と同じにあると思っていた湯沸かしケトルがなかったことだった。そして前泊の部屋にはあったコップやサービスのインスタントコーヒーなどもなかった。

 いや、これは困る。最低湯沸かしケトルはないと困る。私はフロントに出向いて抗議をした。”I need hot water to drink!”フロントのいかにも紳士といった見た目のその男性は「ああ、ケトルがないのですね。ケトルは全室にあるというわけではないので・・・」と言った。私は心の中で「それはないだろう!一泊目と二泊目と同じ料金を出して止まっているのに」と思いながら聞いていると彼は「お湯が必要ならばこちらに給湯設備がございましていつでもご利用していただくことが出来ます。」とフロントの左側のコーナーを示す。そこには給湯器やらコップやらが置いてあるのがわかったが私は心の中で「えーえ?わざわざ6階の部屋からいちいちここに降りてきて湯を汲めというのか?しかもコップに入れて運べと?」と思っていると彼は私の心の声を感じたのか戸棚の中を慌ててさがし、「あ、ありましたありました。これが使えますかね?」と中に入っていた一台の湯沸かしケトルを貸してくれた。やれよかった!私は有難くそれをお借りして部屋に戻った。しかしコップも貸してくれと言うのが面倒だったので部屋に一つだけあった歯磨き用のコップを使って我慢することにした。そして楽しみにしていたインスタントスープも歯磨き用のコップで作る気にならず、ミルクティーを作って飲むだけで我慢することにした。でも堅いクロワッサンサンドをここで消費することができた。堅くてもクロワッサンなら袋の中で時間がたつと少し柔らかくなるのだった。

  残念だった部屋。左からドア、物入れ、鏡です。トイレは鏡に映っている

 棚も小さい折り畳み式。ミルクティーとクラッカー。

    

 11月1日(金)

               【タクシー忌避の闘争再び】

 今朝はサンティアゴ・デ・コンポステーラ駅を6:00発のバスに乗る。それで5:30にホテルを出た。借りたケトルは部屋に置きっぱなしにしてもいいや、と思った。しかし後から気が付いたが別の物まで放置してきてしまった。部屋のコンセントの中に(穴にはまり込む形になってしまうので)「Cタイプ」の変圧プラグを挿しっぱなしで忘れてきてしまったらしい。でもまあいいや、と思った。もう一つ予備があるし、おそらくもう一生ヨーロッパに出かけることはないだろうから。

 この時期のスペインの日の出は8:00頃なので当然まだ外は暗かった。建物から外に出たとたんに驚いた。ハロウィーンをネタにたむろする若者たちの群れである!と言っても普通に避けて通れば怖いこともなく問題はなかったが、気が付いたのはかれらのいでたちが渋谷のハロウィーンのコスプレ軍団とは違ってとてもシンプルだということであった。ツノをつけているだけ、とか目や口の周りにメイクを施しているだけとか。もともと彼らはみな彫りの深い顔立ちで普段からヘビメタっぽいファッションをしているからそれだけで十分ハロウィーンぽいのかもしれない。

 そしてバスは無事にサンティアゴ空港に着き、手続きが済んでフライトの一時間前に搭乗ゲートに着き、近くにあったカフェテリアでスペイン到着以来初めての柔らかい食事を摂ることが出来た。といってもトルティージャ(スペイン風オムレツ)とオレンジジュースである。これは以前にスペインに来た時にもよく食べた。値段も手ごろだしわりと出会いやすい。日本で言うと何だろう?タンパク質食品だからおにぎりには例えられない。コンビニの唐揚げかチキンナゲットくらいのポジションか?そして一時間余りのフライトでマドリードのバラハス空港に着く。やはり帰りにも思ったがこの飛行機は何だか「軽い」。バスに乗ったような感じのまま少し助走してふわっと飛び上がってしばらく飛んだらシュタッ!と着地という感じだった。

  空港のカフェテリアのトルティージャとオレンジジュース

 しかしここからが実は私の正念場だった。この日、この後の予定は一泊目に泊まったのと同じホテルに戻るだけでしかもまだ11:00である。このままおとなしく高いタクシーに乗ってホテルに行くだけなんて勿体ない。歩くのは論外だとわかったが、それならメトロかバスにトライしたい。それで私はまずメトロの乗り場に向かった。しかし券売機にトライしてみたがどうしてもうまくいかなかった。英語バージョンがあるだろうと思ったがそれが出せなかったと言うのかそれ以前にチンプンカンプンだったというのか・・・。周囲の人や案内窓口の人にも尋ねてみたが皆スペイン語しか話さないしたまに英語を混ぜてくれるけどそれでも全く話が通じなかった。

 それで私は諦めてバス乗り場の方に向かった。しかしどのバスがホテルの近くを通るのかさっぱりわからない。それで私はホテルの住所にある「カニジェハス」という地区に行くバスはどれか?と人に尋ねまわった。そして5台目くらいに当たったアトーチャ駅(東京なら新宿駅レベルのバスや電車のターミナルがある)に行くバスに乗ればカニジェハスのあたりを通過するということがわかりそれに乗った。そして周囲の様子を観察しながら停留所5つ目くらいでとりあえず間違いなく降りることができた。

 そしてそこから乗り換えをしなくてはならないらしいのだが、そこらへんにいくつも集まっているバス停の群れからそれらしいのを探したがスマホのナビに表示されている番号のバス停がちっとも見つからない。天気も良く、暑くなってきたので私はすかさず近所にあった果物屋で水を買ったがそのあとしばらくスマホの画面とにらめっこしながらそこらじゅうをウロウロしてまわった。一時は地下鉄に乗り換えるのかと勘違いをしてえっちらおっちら階段を降り、これまた券売機の操作がどうしてもわからなくて人に聞いて「バスじゃないと」と言われて恥をさらし、それでも旅の恥はかき捨ててまたえっちらおっちら階段を昇り、まあよく動かされた。

 結局ナビの示す乗るべきバスの停留所というものがどうしても見つからず、諦めて私はホテルの方角はちゃんと示してくれているナビに従って歩くことにした。そう遠くはないのだ。そして私が10歩くとナビはちゃんと進んでいることを表示してくれる。そのことに励まされて私は時間はかかったものの現地時間の14:36にホテルに到着することができた。バスに乗ったところから3時間かかっていた。でも一回バスに乗っただけなので料金は1・5€で済んだ。

     不思議な木が不思議な実を落としていた。「なたまめ」というやつだろうか?

      前方の高架をくぐるとホテルが近い。

         【やっとまともな食事、しかしトラブルは尽きず】

 部屋は一泊目の時は第1棟の7階にあったのに対して今回は第2棟の一階だった。前夜の残念な部屋とは違って「おお、これは最後に頑張ったご褒美か!?」と思うほどの素敵な部屋だった。といってもよく考えてみれば一泊目の時の部屋とは少々家具の配置が違っていただけだったような気もする。しかし少したってからリビングルームの窓の鍵がどうしても閉まらないことに気が付いた。一階だというのにこれはヤバい。勿論外にはフェンスとかしっかりついているがだから大丈夫とは言えない。それで16:00ごろになって食べ物を買いに外に出るついでに鍵を直してほしい旨をフロントに申し出た。すると後で修理の物を派遣します。18:00ごろに、と言われたように聞こえた。

 そして私は外に出て食べ物を買えるところを探した。10分ほど歩くとケンタッキー・フライド・チキンの店があった。「ヤッホー!食べたかったんだ。」と思って中に入って見ると注文のための機械が置いてあった。「また機械かよ・・」と思った。これまでスペインの自動券売機でうまくいった試しがなかったので私はすっかり嫌になっていた。カウンターに人はいるが口頭で注文していいのかわからないので私はケンタッキーは諦めることにした。そしてその隣にあった「タコベル」という店に入った。日本にもあるらしく、どこかでちらっと聞いたことはあるが行ったことはまだないし出会うのも初めてだった。タコスの店なんだろうな、と思っていてタコスには興味はなかったのだがこれ以上店を探し回るのもしんどいので入って見ることにした。

 幸いここはカウンターでメニューを見ながら注文できた。南米系の顔をしたスタッフさんたちが日本と同じような接客をしてくれて、私はブリトーとサラダと水のセットの入った大きな紙袋を下げて平和な気分でホテルに戻ることが出来た。ブリトーの中には豆と野菜とチキンがたくさん入ったピラフのようなものが入っていた。栄養的には申し分のない食事が出来ると思った。夫が「マドリードの最後の夜を楽しんで下さい。」などというメールを送ってきていたけれども、食事は確かに旅の最後を飾るのに相応しいものだった。しかし私にはまだしっかりとドタバタが残っていた。

         ブリトーとサラダと水

           割って見たら・・・

「18:00に来る」と思っていた鍵の修理が19:00になっても来なかったので私はフロントに出向いた。(電話はついているが使う自信はない。)そうすると「8:00と言った」とのこと。そうかあ、私の効き間違いか。私はまた部屋に戻って8:00PMまで待つ。が、来ない。

 ここは日本ではない。時間厳守の国ではない、とはいえ「いつ来るかわからない」でいいわけはないだろう。こっちだって予定があるのだ。夜になれば寝たいしシャワーもまだだ。

 8:30PM,私は再度フロントに出向いて言った。「いつ来るかわからないのでは困る。このままでは寝られないしシャワーも浴びられない。あまり遅くなるようだったらもう来てもらわなくてもよい。私は自分でストッパーを作るから。」(私の持参の杖で出来ないこともなかった。長さは足りなかったが70%くらいの効果は期待できると思った。)するとフロントの方は慌てて「すぐ行かせるから。」と私に言った。「今すぐです。」「そうですか、お願いします。」と私は部屋に戻った。すると5分もたたずに担当のオジサンがやってきて、力任せにぐいぐいと鍵穴付近を操作してロックをしてくれた。これで大丈夫だ。明日出るまで窓を開けなければいいのだ。あとのことは知らない。私はようやくシャワーを浴び、ベッドに入ることができたがまだ一つ懸案事項があった。それは翌日バラハス空港に向かう方法である。

 この日はバス代1・5€だけで交通費をすませることができたが二時間以上も歩く羽目になったしあんな不確かなことをまたやりたくはない。タクシー代が高いのでシャクだということもあるが、スマホで検索するとちゃんと「バス停まで何分・・・」というナビが出るのでこれで行けそうな気もするのだ。事前に、早朝に、本当にバス停が見つかるか試行してみてそれでOKだったらバスで行くことにしようか。しかしここスペインは朝が遅い。日の出は8:00AMころである。荷物をホテルに置いてバス停まで往復してみるというのを8:00以降にやるとなると時間的余裕がなくなるし、それより前にやると暗くて危険だし・・・。一晩考えた挙句、「バスで行けた!」という達成感を得ることは諦めてタクシーで行くことにした。「ホテルにタクシーを呼んでもらう」という行為だって私にとってはちょっとしたチャレンジである。それをやって満足することにした。

 11月2日(土)

                【帰国の途につく】

 ところで前日買ったブリトーのセットだが、一度に全部食べるのは私には無理だったし私の歯の状態では丸かじりも無理だったので、まずブリトーは半分に割って中身をスプーンですくって食べた。(スプーンは去年の韓国の時のことを反省してプラスチック製のものをフォークと共に持参)サラダは(持参のフォークで)夜のうちに全部食べた。ブリトーの皮とその周辺の具については朝食に用いることにした。前々日フィステーラのスーパーで買った粉末スープをかければよい。有難いことに部屋の中のキッチンに深皿が装備されていて、それを用いて湯を注ぎ、スープに浸した状態で食べた。ブリトーの皮をスープに浸すとうどんのような食感だった。これでホテル最後の朝に満足のいく食事をすることができた。

         ブリトーのスープ漬けバージョン

 7:50ごろ私はチェックアウトをしに行った。タクシーのことを言うと、門のところまで呼んでもらえるという。一分あれば来るという。病院前に来てくれるタクシーのようなものだったのだ。確かに便利だ(高くなければ)。照合の番号を書いたカードを渡されたが、スタッフの女性の一人が私のことを気にかけてタクシーのところまで出てきてくれた。

 こういう時にはチップを渡す方がいいのかなと思って2€を用意していたのだが、仕事をしていたのは彼女だけではないので一人にだけ渡すのは変かなと考えて出さずじまいになってしまった。ちなみにスペインではチップは義務ではないが、気持ちで渡した方がいい場合もあるとのことである。私は気分でホテルの部屋に小銭を置いて来たこともあるがその他では渡していない。タクシーの支払いはみなカードでやったしその後でチップを小銭でというのももたつきそうなのでやめてしまった。

             【バラハス空港、もう嫌だ!】

 ところでその朝バラハス空港ターミナル4までのタクシー代は5700円ほどだった。昼間だから夜に乗った時よりちょっと安くなったりするかなと思っていたら、むしろ高かった。レートが変動したのだろうか?空港には8:30ごろ着いた。が、イベリア航空のカウンターはまだ開いていなかった。イベリアー航空以外にも航空会社がいろいろあるんだな、と思った。当たり前か・・・。

 一時間ほどしてカウンターが開いたがそのあとが何だかとても大変だった。チェックインカウンターで係員の男性が私に対して難しい顔をして何かを言った。私はスペイン語で難しいことを言われると全くわからない。英語で話してもらっても複雑な文章や知らない単語が出てくるとわからない。その方は搭乗券を示しながら必死の形相で説明するがそれでも私は何を言われているのかさっぱりわからなかった。それでとうとう次のチェックのゲートまで案内してくれると言った。私はまだ持っていた水を捨てていなかったので慌ててトイレに捨てに行かなくてはならなかった。

 その男性はトイレのところまで私を案内して「次のゲートはあちらですよ。」と念を押して去っていった。これって、付き添ってくれた意味が全くないじゃないか?私はトイレの場所がわからなかったわけではない。そしてそのあとは全く通常通りのゲートや荷物検査を経て特に誰かに何かを言われることはなく進行した。ただサンティアゴに行く便に乗る時もそうだったがゲートへの表示の標識がわかりにくく、また進む途中にエスカレーターやエレベーターや、果ては無料の自動運転の電車に乗って移動しなければなかったりで、しかも人間がとても多くて混雑していて(私以外は皆大柄な欧米人で大きなスーツケースを二つくらいずつ持っている)それは大変だった。

 初めは「早めに空港に着くともう大丈夫だという安心感があるな」と思っていたが、こんな調子で搭乗ゲートのそばに辿り着いたのはフライトの30分前だった。夫がメールで「ゆっくりお土産を探して・・・」とか言っていたがそんな暇はなかったじゃないかあ・・と思っていたら、待合場所のそばに何かありそうなお土産ショップがあったので入ってみたら運よく夫や娘にあげられそうな小物を見つけることができた。

 結局チェックインカウンターの男性が私に何を言いたかったのか最後までわからなかった。搭乗してから日本人のCAさんに「どういうことだったのでしょう?」と相談してみたら「座席に備え付けのオーディオ機器の具合が悪いので・・ということでしょうか?」と言われてああ、そんな感じのことを言っていたなとは思ったが、それだけのことであんな必死の形相になるとは思えない。それに「搭乗ゲートはS-12]としつこく念を押していたがそれはチケットに明記してあるので見ればわかる。ついに最後まであの係員さんが言いたかったことはわからず、私は手続き上何も問題なく搭乗し、そして何事もなく予定通り飛行機は成田に着陸した。

       おなじみのウェルカムドリンク

 もうお別れだ、バラハス空港、スペイン、ヨーロッパ。

 こういうのを見るのも最後だな。

      この画面も大好きだったよ。

    今まで無事に飛んでくれてありがとう。

   オリーブとチーズ!いいねえ。

 エビとアボカドのサラダ!これが食べたくて乗ったようなもん(∀`*ゞ)テヘッ

       タラの料理も美味しかった!

 デザートにチーズの盛り合わせ!アイスクリームとかよりお洒落だよね♡

        二度目の機内食はオムレツでした。

 しかしもう一つ驚愕したことがある。往路の搭乗客の90%がスペイン人だったということを始めの方で言ったと思うが、復路に至っては99%がスペイン人だったのだ!周囲から聞こえるのはスペイン語だけだった。日本人らしい人を私以外に二人見たが他には見えなかった。日本人は小さいから埋もれて見えなかったのかもしれないが。8年前と6年前にもスペインに行き、パリのシャルルドゴール空港経由で帰ってきた。8年前はいろいろ混ざっていた気がするが、6年前の時は搭乗客の90%くらいがフランス人で日本人は10%あるいはそれ以下くらいだったので驚いたことがある。日本はこんなにも憧れの国なんだなあ、と。

 ところでバラハス空港の印象が今回私にとっては大変悪かった。人が多すぎるせいかごちゃごちゃして動きにくくてわかりにくくて移動に手間がかかって・・。でもふと思った。それはT4(第4ターミナル)だったからなのか?ターミナルによって様子が違ったりするのだろうか?以前私が使ったターミナルはどちらもT2だった。もしかしたらいろいろ様子が違っていたのはそのせいだったのかもしれない。以前にはバラハスはとても落ち着いていて過ごしやすい空港という印象で特にわかりにくいところもなかったのだ。でももう行くことはない・・。

 11月3日(日)

                【成田に到着】                        帰りの便も予定よりも30分くらい早く10:00AM前に到着し、流石に日本の空港はわかりにくいということもなくスムーズに出られた。「殆どスペイン人」の話の続きになるが、パスポートコントロールの時「日本人はこちら」のゲートを通過したのは私一人で、後の人々は皆外国人用のゲートに並ぶ、という笑ってしまうような光景となった。わずかながらもいたのであろう私以外の日本人は足の遅い私よりずっと先に行ってしまっていたということである。そして帰りも成田エクスプレスを利用したが、この乗り場がちょっとわかりにくいかんじがした。(まあもう行くことはないだろう。)

                    【追記】

 ◎6月にフィンランドから帰ってきた時のような喉の不調は何も発生しなかったし帰りにタクシーなど使わなくても大丈夫だったし帰宅後も普通に動くことが出来た。機内でぐっすり眠れたのか?というと特にそうでもなくまあまあ何とか・・という感じなのだが。しかし時差ぼけのような感じは二日間くらい残っていたような気がする。

 ◎両替して持って行った二万円分のユーロは殆ど使ってしまい「渡せなかったチップ」分の2€だけが残った。

 ◎バラハス空港にもビジネス用のラウンジがあったのかどうか知らないが、あったとしても使う暇がなかった。もしも私が更に一時間早く空港に行っていたとしてもチェックインカウンターがぎりぎりまで開かないわけだからやはりラウンジなど利用する時間はないということになる。

 ◎私の不注意なのだが、ビジネス席のリクライニングシートを動かしているうちに手荷物が座席の下にはまり込んで取れなくなってしまい、体格のいいCAさんが頑張って引っ張り出して下さったのだが、その時その時の衝撃で中のチョコレート(板チョコ)が全部真っ二つに折れてしまったようであった。( ノД‘)身内への土産品なのでお詫びをして受け取ってもらった。

                   【完】

 

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